top of page

1Q82 in Tokyo


 大学では、「ギター・アンサンブル」というサークルに入っていました。一応は部活動という位置付けで、春と夏には合宿、秋には定期演奏会、そして2ヶ所の地方公演、他大学との協賛での演奏会などを実施していました

 

 部員は、セレブな家に育った人が多く、定期演奏会のチケット割り当てが1人3万円で、日本青年館(国立競技場近)や読売ホール(有楽町駅前)など、分不相応なホールを、1日150万ほどで借りていました。生活のためのアルバイトでの稼ぎがサークル運営のために転換し、たまらず2年生にて退部しました。


 ギターは、13歳から弾き慣れているので、その他大勢ではなく、クラシックでは「ギタロン」というチェロもどきのギター、そしてコントラバス、エレキベースにラテン・パーカッション等々をこなす、何でも屋さんでした。普段はバックバンドの役割を担当していましたが、時には、松岡直也研究のラテン・フュージョンバンドにもなりました。パーカッションのクラベスやクイーカなどを、得意としていました。


 そんなバンドの練習をするには、スタジオをレンタルしないと、世間の迷惑です。同期に、本物のプロ、ザ・スクエア(F1テーマ曲)なんて凄い奴らがいたりして、大学周辺の貸しスタジオは、大盛況の混み具合でした。順番が来て部屋が空くまで待っていなければなりません。


 名前は失念しましたが、宮益坂のスタジオで順番待ち状態の時のことです。1つ前に使う人たちから声がかかりました。ベース担当がいなくて、やってくれる人はいないかとのこと。結局は、私がやることになり、初めての曲のコード進行殴り書きのみで、演奏開始。


 だいたいギター等のチューニングすらできてもいなく、演奏もド下手。コード進行は、簡単そのものでした。一応、付き合いましたが、ガチガチの和製ロックは苦痛でした。時間になるまで付き合い、重ねて「これから一緒にやらないか?」と問われました。


 こうした場合に発する口癖「カタギで生きるので」という慣用句(?)で、辞退しました。演奏をアシストした曲は、これまた妙な名前。このバンドのボーカルが、あんなに有名なヒットメーカーになるなんて思いませんでしたが、卒業の時に"Ya Ya あの時代を忘れない"を肩組んで歌うという結末になりました。


 さて、サークルの部室の向かいには、いつも真っ暗な「原理研」があって、時々角材を持って来た連中と乱闘騒ぎ、隣は落語研究会という並びでした。その廊下の狭いベンチで、ギター弾いて暇つぶしを常としていました。隣の落研は、体育会系もどきで、よくコンクリートの床に正座して、稽古をつけてもらっていました。落研で仲良くなった人は、書き物担当で、親切にも私の芸名を「ギター漫談 高橋とほる」と見事な勘亭流で書いてくれました。


 それを受け取っている時でした。「へえ、色物かい?」と声をかけてくれたのは、なんと三遊亭楽太郎さん(後の故人となる円楽さん)でした。何かやってみるよう言われ、ギターを背負って逆さに弾くイタズラ弾きをやってみると自分の一門に入らないかと言われました。目は、冗談を言っていないぞと語りかけていました。


 こんな誘いが続くなんてと困惑しつつ、いつもの常套句「カタギで生きるので」と答えました。楽太郎さんは落研OBで、後輩たちの面倒を見てくれているのだとか。落語は、日本の伝統芸だからと、ちょっと心揺れましたが、親分の言葉を思い出して、すぐに断念しました。


 東京にノコノコ出てきて、芸能界との接点がこれほどあるのか、驚きました。いろいろいろな経験を短時間でしましたが、サークルを辞めてからは、アルバイト三昧で過ごしました。普通にリクルート活動(就活)して、また三流だと門前払いをたくさん食らい、行き着く先は、親分の行った通りになりました。いい夢を見させてもらったから、それでいいとも思いました。地元では味わえない刺激を受ける。それで良かったと、今も思っています。


 親分の言う通りガッコのセンセーになり、長い時を過ごしました。そういう結論に至るまでいろいろな人の心と触れあって来ました。時々独力で今の自分になったといった幼稚な戯言(たわごと)めいたことを耳にします。そんな考え方は、いつまでも続かないことを思い知るべし。


 人生には、必ず「岐路」があります。それを決断するのは、もちろん自分自身ですが、聞く耳だけは持っていることを、お勧めします。人には「勝ち組」と「負け組」があるなんて「ほざく」奴がいます。そんな考えには、間違いなく一喝をお見舞いします。私なんかでさえ、いろいろな小さい岐路を支えてくれた一言があります。これは大事にすべきか否か?未来を明るくするかどうか、決めるのは、あなたですよ。


 終わりになって、説教じみたことを述べ、大変失礼しました。未来を決めるのは自分自身でも、アシストは途切れることなく、一生してもらえますから、どうぞご安心ください。最後にファッションのみ真似た、中村さんの歌を一部分差し上げます。「ふれあい」より。


♪人は皆、一人では生きてゆけないものだから♪

                   

Comments


015-0864

秋田県由利本荘市大鍬町 117-2

 

学校心理士

​健康経営アドバイザー

髙  橋     

  お問い合わせは、私から私へメールを送ります。バレません、チャットもバレませんので、ご心配なく。なお、プロフィールはパスワードが必要です。ご質問があったり、こんな私の個人情報を知りたいという方は、チャットか「お問い合わせ」ページで、お尋ねください。

  • フェイスブック

note

©️2022 Toru Takahashi.All Rights Reserved.
bottom of page